厚い雲に覆われていた空が薄曇りになり、若干の日が差すようなこともあった、今日の自分の心模様。
だが、それにそれ以上の期待はしない。
金輪際、曇りのち晴れってことはない。
生涯、薄曇りの時折小雨が降る、冬の沖縄の天気みたいに、いつまでも、どんよりしたものをずっとひきずっていくのだ。
考えたね。
何をしても上手く行かないのは、こちらのほうの道に先が無いからだ。
恐らく道が途切れている。
上手く先を進んでいけないのは、茨が足に突き刺さり、歩みをしばしば止めるからだ。
それは一つの警鐘なのだ。
これはどういうことか。
進むべきではない道を行っているということなのだ。
今迄、何度となく天啓があり、行くべき道が示されていたのに、それにきちんと受け止め、示された道を進むことをしてこなかった。
それはすべて自分の怠惰のせいで。
小難しい書き方をしてしまったが、自分が宗教がかっているということではない。
ただ今思えば、人生のチャンスやらが幾度となく訪れていたにも拘らず、うかつにもそのことに気が付かないで、或いは自分の意固地・凝り固まった考え方によって、そのチャンスを生かさないまま、放置していたということなのだ。
さらに、つかんだまではいいとして、自分の怠惰で途中でそれを放棄したこともある。
チャンスというのは、久しい辛苦をもって生かすもので、ただ与えられるものではない。
自分はそれに気が付いてはいたが、見て見ぬふりをしていたのだ。
それに気が付いた今、自分は素直にその罪を認めて、罰を受け入れている。
それ故に、あるとき最早打鍵が出来ないときが来ても仕方ないと感じている。
ピアノ演奏の技量習得を目指して練習することが、示す道の一つなのかはわからない。
ただ重い腰を上げて、わざわざこの歳になって、(思い起こせば長い間傍らに置いたままにしてきた)想いを形にしていると考えれば、そのなぜを思えば、それは正しい歩みを始めていると思われなくもない。
振り返ってみると、なぜ練習を始めたか、そのきっかけとなった直接の理由を思い出すことが、今出来ない。
何かに突き動かされて屋根裏からキーボードを引っ張り出してきたのだが、やってみようという気持ちに火とつけたのは一体何だったのか。
霊的に導かれた、といったような超自然的な心象は全く持っていない。
極ありふれた感情の内に、指を動かしたくなっていたというのが実情だ。
多分、オーディオで聴く、ピアノ演奏の麗しい旋律の数々に心を動かされたのであろう。
お気に入りの曲を何度も何度も何度も(本当に数百回繰り返した)繰り返し聞いているうちに、自分もこの音楽を奏でてみたい、同じ音を出してみたい、そう思ったのに違いない。
そうして進んできた日々。
僅かばかりの前進だが、ほんの少しだけの充足感を得て、また何か義務・職責を果たしているような奇妙な感覚になることがある。
だから、今やっている練習は、あるべき姿に符合している可能性があって、先を進むことが出来るという望みもあるのだが、そうは言っても、チャンスを生かしたつもりでつかんだ糸が、実は毒蜘蛛の糸であったことがわかって苦しむこともあったから、この先がどうなっていくかは全く分からない。
分かっているのは、晴れた渡った空の下で軽やかに奏でるピアノの音色ではなく、いつもまでも切れることのない、薄く広く、時には厚い雲に覆われた曇天の中で伝わるピアノの残響音なのだ。
それでも、いつか自分はそれを美しいと感じることが出来るであろう。