残念だが、自分の手指はそもそもピアノ向きではない。
短くてコロコロとしている。
まるでモグラの手のようだ。
労務者であった、父親の血を引いていると思われる。
芸術家のそれではない。
以前にも書いたが、掌に対して指肢の方が相対的に短い造りになっている。
指の間の水掻きを切って、指の付け根まで切り開いて、ようやく人様の長さになる。
果たして自分は切ったことは無いけれど、多分そうだ。それぐらい短い。
だが、殿馬のような技量は、無いから、切る必要も無いだろう。
モグラの手では、ピアノ上手く弾けるわけがない。
それから加えるに、元々体は硬い方なのだ。
そもそも、だから指の動きもしなやかでは、無い。
さらに加齢がこれに追い打ちをかけて、益々打鍵が円滑さを欠く。
ピアノが上達しない、間違えてばかりいるのも、こうした体の基本構造に基づくものがあるんじゃないかと、いつも疑念に思っている。
指の動きを柔軟にするため、指の間を拡げることなんかもたまにはしてみるけれど、それには効果が無い、という人もいる。
不利に不利が重なって、まるで門前払いのようだけれど、それでもなんとなく食らいついてそこに居る。
以前、TVプログラムでのことだが、フジコ・ヘミングが素人のピアノ弾きの手を見て、それはピア二ストの手だと言っていた。
その素人は漁師なのだ。
がっしりとした丸々と太い労働者の指だというのに。
慰めているのか、同情しているの良くわからなかった。
そんなことがあるものかと、思った。ピアニストの指はもっと美しかろう。
見たところ、確かにフジコ・ヘミングも指もそれほど長いものではなく、その体つきに見合うように指もふくよかであった。
だから、自分を弁護するために、漁師にそうも言ったのかもしれない。
それをみて、同意も、我が意を強くすることは無かった。
弁明がましく、何も良いことはない。
弾いた曲が自分があまり好きではない、”ラ・カンパネラ”だから、気持ちの寄せようも、ない。あの物悲しい仄暗い曲は嫌なのだ。
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指先が細くて長く、動きがしなやかな女性のピアノ弾きを見るにつれ、つくづくそれが羨ましいと思う。
悲しいかな、それが真実であり、事実なのだ。
ピアノの音色は美しい。
その音色を響かせるのが、モグラの手だなんて悲壮もいいところだ。