一昨日、夕刻の事。
体調不良で、早めに仕事を切り上げ家に帰ってきた。
家の裏の方で、アブラゼミの盛歌の中に、涼しげな鳴き声がかすかに聞こえる。
小窓を開けて、耳を傾けてみた。
確かにそれは日暮(ヒグラシ)だ。
近頃、鳴き声を聞かない、と思っていたら、それは違っていたのかもしれない。
夕刻に鳴くことが多い日暮の活動時間帯に家に帰ってこれなくて、単に聞き逃していただけなのかもしれない。
家の裏の方には、雑木が立ち並ぶ公園がある。
その一角が少し湿ったような感じの薄暗い林となっている。
恐らく、日暮はそこで鳴いているのであろう。
アブラゼミのが鳴いていると、ひたすら喧しく感じるだけだが、ヒグラシやミンミンゼミ、ツクツクボウシの声を聞くと、季節感があってとても良い。
煩いとは感じない。
尤も、ヒグラシやミンミンゼミだって、沢山の個体が自分近くで鳴くところに遭遇すれば、それは風情というところではなく、ただ騒音にしか感じられないかもしれない。
そういえば、最近はセミの事ばかりを書いている。
さては、歳時記のような風体になっているこのブログだが、本旨であるピアノの事、自分の指で奏でるピアノの音はと言えば、またもやポンコツに戻りつつあって実に困惑している。
指の柔軟性の無さと言ったら、これはどうしようもないもので、本当に情けなくなってしまう。
包丁を持ってきて全ての指を切断したくなるところだ。
これは少し言い過ぎだが、チョットした指の動きが常に足りなくて誠にもどかしい。
全てが遅すぎたのだ。
だが、これ以外に進む道も無いのも辛い。
もはや止めることは許されぬのだ。
進歩があろうが無かろうが、先に進むしかない。
セミの一生は長いものでは10云年を超えるが、土の中から這い出て成虫になってからの
余命は実に短い。
恐らく、自分もセミのように土の中が長いが(つまり上達するのに時間が掛かる)、成虫になってから(そこそこ弾けるようになる)自分の命が絶えるまでに、本当に短い時間しか残されていないのだろう。
ショパンは40前に死んでしまったが、仮に自分がその倍をいきたとしても、ショパンの曲の一つも弾けないかもしれない。
何だか空しくて、セミにように鳴きたいぐらいだ。
「カナカナカナ・・・」ではなくて、「チク・チク・ショウ・チクショウ」と。